熊野筆

美しき調和を閉じ込めて。

筆司 實森 康宏
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資生堂トップヘア&メーキャップアーティスト 岡元 美也子

筆を使って文字を書く。それは普段よりも自然と背筋が伸びるような、特別な趣があります。
あらかじめ書こうとする言葉たちを頭の中に揃え、一文字一文字、一画一画、呼吸をするように墨を移していきます。慣れるまでは時間がかかりますが、その分だけ自分と、想いと、文字が、筆を通してひとつになる……、そんな感覚に包まれるから不思議です。

そしてその筆もまた、自然や匠の技がひとつになって出来上がっているものだということを知ったのは、今回の旅がきっかけでした。訪れたのは、資生堂トップヘア&メーキャップアーティストで、数多くのメディアでも活躍する岡元美也子。迎えてくださったのは、世界に誇る筆の町、広島県熊野町で全国の書道家たちの特注品を手がける筆司・實森 康宏さん。實森さんの熟練の手業、ひたむきさを通して、美しいものを作り上げるということのひとつの原点を体験することができました。

世界に誇る筆の町・広島県熊野町へ。

筆の町を支えているのは、今も昔も職人の技です。

旅のはじまりは、広島駅。そこから車に揺られること30分、矢野峠と呼ばれる峠を越え、一気に海抜250mを登ると、筆の町・熊野町に着きます。
岡元にとってここ熊野町は再訪の地。ヒット商品となった化粧筆「資生堂ファンデーションブラシ131」の開発時に見学に訪れた2009年以来となりました。
熊野町は、筆作りの国内シェアが80%以上。国内で流通するほとんどの筆が、山に囲まれたこの静かな街で生まれています。

筆の町を支えているのは職人の技です。機械技術が発展した現代でも、ほとんどすべての工程が人の手によるもの。それは小学生が習字の授業で使うような安価なものでも同じです。現在でも熊野町では約2,500人もの人が、何らかの形で筆に関わった仕事をしていると聞きました。

その中に「伝統工芸士」と呼ばれる人がいます。それは、匠の技を現代に伝え、全国の書道家の特注品を手がける筆作りの名人。
「伝統工芸士」の作る筆は道具としての使いやすさだけでなく、伝統工芸品としての美しさも備えています。
實森 康宏さん、雅号・得全。書筆に関わる数々の賞を獲得し、正倉院宝物中の「毛」に関する特別調査にも参加されました。間違いなく世界でも有数の筆作り名人である實森さんもまた、「伝統工芸士」のひとりです。

筆司・實森 康宏さんの一途な筆作り。

見極め、選び、整える。それは神技の連続でした。

實森さんと岡元、実は初対面ではありません。2009年にこの町を訪れた際、筆作りの現場として、その作業を見学させていただいたのが實森さんでした。
「お久しぶりです」と挨拶する岡元に、實森さんは「今回のお話を聞いて、お名前をうかがった時にすぐに思い出しました」と優しく微笑みました。

書道家たちは自分がイメージする字の太さやかすれ、姿を表現するために、最適な筆を選びます。そしてそんな筆の個性に大きく左右するのが墨を含ませ、直接紙に触れる場所である穂首。この穂首作りは職人の勘と指先の繊細な感覚による神技の連続です。
化粧筆や画筆と違って、書筆は用途に合わせて何種類もの動物の毛を組み合わせて作られます。原毛選びからはじまり、油分を抜く「毛揉み」、綿毛を取り除く「毛揃え」、真鍮の板をリズミカルに叩きながら毛先をピタッと揃える「先寄せ」、「寸切り」と呼ばれる毛の裁断、そしてほんの少しずつ長さを違えた数種類の毛を均一に混ぜ合わせる「練り混ぜ」など、話しかけるのも憚れるほど、本当に頭の下がる作業がつづきます。

特に圧巻は逆毛、すれ毛を取る作業と、練り混ぜの工程。左手に毛の束、右手に小刀を持ち、一目ではとてもわからない逆毛、すれ毛などを抜き、良質な毛のみを選び取ります。實森さんはいとも簡単に作業をしているように見えますが、まさに正確無比な神技。「ほら、これが全部ダメな毛」と見せていただくものは、なるほどふわふわしていたり、逆向きだったり。岡元とともに、ため息がこぼれるばかりでした。

また、練り混ぜは、バラバラだった動物の毛が、一つの筆先、穂首になっていく瞬間。精毛にふのりを混ぜ、台の上に広げ、たたみ返すように混ぜます。それを何度も何度も繰り返し、硬い毛、柔らかくしなる毛、よく墨を含む毛……、それぞれに特徴を持った動物の毛が見事にまとまり、書き味に優れた一本の書筆が出来上がります。

「本当にいろいろな動物の毛を組み合わせるんですね」と岡元が尋ねます。
「種類によって特徴がまったく異なります」と實森さんが、ひとつの毛の束を差し出しました。「これは馬の毛ですが、触ってみますか?」
「結構バリバリで硬いですね」
「そうなんです。馬の毛は硬く、その分毛先を揃えやすいですね。また、これはタヌキの毛で、墨を含んでもしっかりしています。こっちは羊の尻尾でこれも硬い方。特に下にいくほど硬く、切るのに力が要ります」

今回の見学では、岡元が仕上げの工程を体験することができました。軸とひとつになった穂首に、たっぷりと糊を含ませ、最後に糸で締め上げて、余分な糊を落とします。實森さんのお手本を拝見してから、早速体験。糊を含ませる作業は筆を垂直に何度も打ち付けて穂首を広げながら行います。指導する實森さんも「もっと、もっと!」と、次第に熱が入ります。やってみると實森さんの作業とは音が違う。實森さんは筆を打ちつける音がドンドンドンと力強く、糊がたくさん穂首に溜まっていくのが感じられました。

「筆作りで一番好きな作業は何ですか?」と岡元。
實森さんは「うーん」と少し迷ってから、言葉をつなぎました。「やっぱり毛を選ぶところでしょうか。毛の種類や量によって筆が決まります。自分の筆を作っていると一番感じられるところですね」
穂首はほとんど素材そのもので、長さを切りそろえる時も決して毛先は切らず、根元で調整します。つまり、動物の毛がそのまま活かされているのです。当然手に入る動物の毛は同じ種類であっても一つひとつコンディションが異なります。それらを選び、組み合わせ、調和させるのが職人の腕の見せ所です。穂首を作る職人のことを「筆司」と呼びます。「筆師」でも「筆士」でもなく、「筆司」。筆の個性を司る、そんな仕事だからそう呼ばれるようになったのでしょうか。そんな風に感じた、實森さんの言葉でした。

書筆と化粧筆の違いはあるものの、岡元自身もメーキャップアーティストという仕事柄、毎日多くの筆と関わりを持っています。
「いつもスタンバイさせている筆は全部で30本くらいになるでしょうか」と岡元は語ります。「粉の含み、広がり方など、一本ずつ本当に違うんですよ。お客さまの想いに寄り添い、メーキャップでその人ご自身が持っている美しさを引き立てるために、微妙な違いを持った筆を選び、テクニックを組み合わせます。きっと實森さんの筆作りも同じなのではないでしょうか。書道家さんのオーダーに応えるために必要な毛を選び、その毛を活かしながら、最適な組み合わせで仕上げる。その作業を間近で拝見して、私の仕事と通じるところがあるのかも、と感動してしまいました」

美しき調和の賜物を、熊野町から世界へ。

伝統と挑戦もまた、ひとつに調和して。

熊野町では、原料となる動物の毛や竹が豊富に手に入るわけではありません。そんな場所で筆作りがはじまったのは江戸時代後期のことでした。当時、農地の少なかった熊野町では農業だけでは生活を支えられず、農民の多くが農閑期には出稼ぎへ向かいます。
そして、出稼ぎを終えると今度は、紀州や大和で筆や墨を仕入れ、行商しながら帰ってきました。これがきっかけで熊野町と筆の結びつきが生まれます。それから約170年、熊野の町民は筆と密接に関わりながら暮らしてきました。

例えば榊山神社。ここは年に一度行われる筆まつりの舞台となっており、使わなくなった筆を供養する筆塚が建てられています。毛を使わせてもらった動物への祈り、愛用してきた筆への感謝の気持ちを、この供養で捧げることができます。
ここで岡元も長年に渡って愛用してきた化粧筆十数本を供養させていただきました。

また、筆工房「仿古堂」が運営する「筆の駅」という場所では、書道家・津能宏明(号・備山)さんの筆さばきを拝見することができました。「美という字を美しく書くコツはありますか?」と岡元。「バランスが大切です。一、二画目で空間を取り、真ん中で引き締め、最後の大の部分でどっしりと書くと、美しい文字になりますよ」と津能さんは語ります。ピンと張り詰めた空気の中、津能さんの呼吸そのものが乗り移ったかのように、筆が動きます。そして書き上がった「美」の一文字。まさしく全てが整って、「美」という文字の力強い美しさを改めて実感することができました。

熊野町では伝統的な書筆作りを守る一方、その技法を生かして化粧筆や画筆作りにも取り組んできました。現在では書筆とともに全国一のシェアを誇り、欧米などの海外にも多く輸出されています。さらに中小企業庁が進める「JAPAN BRAND」の一環として、横書きがしやすい筆「KUMANO-FuDe」を開発するなど、日本の書筆の素晴らしさを世界へ発信する試みもはじまっているそうです。

筆司・實森さんの仕事からは、自然そのままの素材を調和させ、美しく仕上げる技に触れることができました。書道家・津能さんが呼吸を整えてしたためる書は、バランスのとれた美しさに溢れていました。自然、人の心、技、それらが美しくひとつになって受け継がれてきた熊野筆。調和の取れた日本ならではの美しさが、世界へもっと届くといい。そんな風に思いを馳せながら、帰途へ着いた広島への旅でした。

「自然と、想いと、技術をひとつにしていく。
それが、筆を司る、筆司という仕事です」

筆司 實森 康宏

「妥協のない技術と美しくしたいという愛情を持って、
その人の中にある美を引き立てていくのが、メーキャップアーティストという仕事。
何かひとつが欠けても、きっと本物の美は生まれないと思っています」

資生堂トップヘア&メーキャップアーティスト 岡元 美也子

實森 康宏

筆司

100年以上の伝統を持つ筆工房「實森誠実堂」の三代目で、雅号は「得全」。2000年に熊野筆伝統工芸士に認定。2002年全国書道品生産連盟会長賞や、2004年中国経済産業局長賞、2009年経済産業大臣功労賞など、筆に関する受賞多数。2012年には宮内庁正倉院から正倉院宝物中の「毛」に関する特別調査の委属を受ける。

岡元 美也子

資生堂トップヘア&メーキャップアーティスト

5 年間のニューヨーク駐在を経て、現在もニューヨークコレクションを中心に数多くのメゾンでメークチーフを務める。CM・グラフィック・TV・雑誌撮影など、幅広く活躍し、大ヒット商品「資生堂ファンデーションブラシ131」などの商品プロデュースも行っている。テレビ朝日「BeauTV VoCE」の「Beauty Book」に出演中。毎日ファッション大賞選考委員。

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