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過去の選考結果

第33回現代詩花椿賞

第33回現代詩花椿賞、最果 タヒ『死んでしまう系のぼくらに』(リトルモア)

受賞作品

受賞作品 『死んでしまう系のぼくらに』

受賞のことば 最果タヒ

ずっと、レンズのような詩を作りたいと思っていました。読む人がその詩を通じて、その人自身の内側や現実を見つめるような、いつもの景色や自分を少しだけ変えて見せてくれるような、そんな詩です。そしてそれはきっと、お化粧が放つ光にも近いのだと、ある時ふと気付いたことがあります。既製品の美しさを被せるのではなく、その人の内側に眠る美しさを浮かび上がらせていくような、そんなお化粧。飾るだけで、見える景色も明るく、もしくは瑞々しく見えていく。それは私が作りたかった詩の、あり方そのものだと思ったのです。だからこそ、私にとってこの賞は憧れでした。受賞でき、本当に夢のようです。ありがとうございます。

受賞者略歴

最果タヒ(さいはて・たひ)

1986年神戸市生まれ。2006年現代詩手帖賞。2008年『グッドモーニング』で中原中也賞受賞。その他詩集に『空が分裂する』『死んでしまう系のぼくらに』。自身初の短編小説「スパークした」は『年刊日本SF傑作選』に収録された。その他の小説に『星か獣になる季節』『かわいいだけじゃない私たちの、かわいいだけの平凡。』がある。

選評

蜂飼耳

 最終候補の四冊はいずれも、作者の持ち味が発揮された、完成度の高い詩集だった。細田傳造『水たまり』は、作者の生を感じさせる。あえて描き切られていないのではないかと思わせる部分にも求心力がある。三角みづ紀『舵を弾く』は、安定感のある書き振りで、作者の現在を充分に知らせるかたちを持つ。安らぎやくつろぎを感じることができた。暁方ミセイ『ブルーサンダー』は、作者の好みを感じさせる内容。そうした好みの方向性とむしろ対峙しなければならない局面が、これから生じるかもしれない。まとまりのよさはあると思う。最果タヒ『死んでしまう系のぼくらに』は、語彙・言葉に、ふくらみや豊かさや奥行きがあまりない。フラットな感じ。そこに賛成しきれないとはいえ、それはたとえばネット社会の現在性を示唆する方法だとは思う。メッセージが批評となる部分などは作者の特徴だ。ためらいを残しつつ、新鮮さを持つ一冊としてこの詩集を選んだ。

佐々木幹郎

 討議が進むにつれて、三角みづ紀『舵を弾く』と、最果タヒ『死んでしまう系のぼくらに』の二冊が最後に残った。この二冊のどちらがいいか比べることはできない。描かれている世界も、言語の選び方もまったく異なる。
 三角みづ紀の詩集は、旅の移動の光景を描いた前詩集よりもさらに進化していて、深まっている。今回は「生きもの」への問いが鮮烈で哲学的だ。言葉のうまさに舌を巻く。
 最果タヒの詩集は、「恋」「愛」「しあわせ」「孤独」「死」などの既成概念を軽々と壊して、そんなありきたりの凡庸な感性で、みんな生きているわけがない、と言う。同世代あるいは作者よりもっと若い読者と対話している。ここにあるのは街だ。現代のファッショナブルな都市。「世界がほろびるなんて、なんてことないんだよ」。現代詩の概念を破った実験作である。饒舌がそのまま人間存在の軽さと重さを、化粧のように描き分ける。その実験に、花椿賞がふさわしいと考えた。

小池昌代

 斬新な比喩もなく語彙も限られたものだ。なのに目は行を追いかけ、心はぐんぐんと詩に急接近する。最果さんの詩は明日には古くなってしまうのだろうか。だが今、ここにある言葉を必要とする人はどこかにいる。少なくともその一人は私であった。
 言葉に傷ついた人、人を傷つけた言葉。暴力的な力で葬られ、無視され、あるいは置き去りにされたものを、この人は、その同じ言葉を使って再生し、力に変える。『死んでしまう系のぼくらに』。これほど「今」である本はないが、同時にこの本は、「今」に絞め殺されてしまいそうな人たちを救い上げ、役を果たし終えた後には消える覚悟でいた。
 疾走するブルーサンダーに乗って乳白色の生々しい風景を切り開いてくれた暁方さん。一冊ごとにまぶしく変身するしなやかな三角さんの詩群。ついに核心を書き始めたかと思われた細田さんの『水たまり』にも、決して解けない空白の固まりがあって惹かれた。

池井昌樹

 三角みづ紀『舵を弾く』、最果タヒ『死んでしまう系のぼくらに』、暁方ミセイ『ブルーサンダー』をめぐり最終討議が交わされた。
 横書き表記の短詩を交えた最果タヒの受賞作『死んでしまう系のぼくらに』は、ツイッターなどで多くの読者を持つと聞くが、生や死や愛、ヒトとしてこの上なく重い主題を、陽光の中の綿埃のように軽々と「きみ」へ「あなた」へ語り伝える、読者を強く想定した今様のその手練の技が、詩として強く私を捉えたわけではない。受賞に異義は挟まない。
 三角みづ紀『舵を弾く』には「オノレノタメニノミ」という作者ならではの「原初の発語」と「詩の普遍」があり、最後まで推し続けた。しかし、「定点観測」などの佳品を含む一方で、この詩集には良く解らない幾編かがあった。解らなくとも有無をいわせず心を捉え続けてきたその詩が、初めて私には解らなかった。何故なのか。私が老いてしまったのか。それとも。

選考経過

第33回「現代詩花椿賞」の選考会を、2015年9月10日午後2時より、東京銀座資生堂ビル8階サロンにて行いました。選考対象は2014年9月1日から2015年8月31日までに発行(奥付に銘記)された詩集。蜂飼耳氏、佐々木幹郎氏、小池昌代氏、池井昌樹氏の選考委員四氏から、計10冊の詩集が推薦されました。佐々木氏を座長とする審議により、午後4時20分、三角みづ紀『舵を弾く』、最果タヒ『死んでしまう系のぼくらに』、暁方ミセイ『ブルーサンダー』、細田傳造『水たまり』の4冊を最終候補に決定。さらに討議を重ねた結果、午後5時44分、標題の通り受賞作を決定しました。受賞者には特製香水入れと賞金100万円が贈られます。

第32回現代詩花椿賞

第32回現代詩花椿賞、石牟礼道子『祖さまの草の邑』(思潮社)

受賞作品

受賞作品 『祖さまの草の邑』

受賞のことば 石牟礼道子

「於古世野魚万呂(おこぜのうおまろ)」という詩を『現代詩手帖』に書いたら、編集者の方が「これは歴史上の人物でしょうか」と尋ねられた。オコゼは実在する魚の名で、魚の中で一番不器量といわれている。鯛と並べてみると、あまりの違いに町の人たちは驚くに違いない。私の詩はオコゼのようなものではなかろうか。
オコゼは顔は醜いが、腹の中はきれいだと漁師たちはいう。それに引き換え鯛は腹の中が汚いのだそうだ。一方、山の姫神様も名うての醜女(しこめ)で猟師が山へオコゼを持ってゆくとたいそうよろこばれる。山の姫神とオコゼは何百年にもわたる恋をして、婚礼を挙げる。村の爺さま婆さまはそれをことほぐのである。
私の詩はオコゼと山の姫神様の恋のようなものだ。そんな詩に名誉ある「現代詩花椿賞」をくださるという。それでよいのだろうか。竜神様に伺ったら、それでよろしい、いただいておけとおっしゃる。仰せに従うことにした。

受賞者略歴

石牟礼道子(いしむれ・みちこ)

1927年熊本県生まれ。代用教員、主婦を経て詩歌を中心に文学活動を開始。69年、水俣病の現実を描いた『苦海浄土―わが水俣病』で注目を浴び、第一回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれるも受賞辞退。93年『十六夜橋』で紫式部文学賞、2001年度朝日賞、02年『はにかみの国―石牟礼道子全詩集』で芸術選奨文部科学大臣賞など受賞多数。

選評

高貝弘也

石牟礼道子『祖さまの草の邑』を読んで敬虔な気持ちになるのは、神さまに捧げる書物であるからだろうか。感謝と祈りの思いがこみあげ、命の貴さを再びしる。忘れていた言葉、出会ってこなかった言葉の美しさを味わう。ひとりのひとの書いた詩をひとりのわたしが読んでいる、という感覚が全くない。掉尾の詩篇「花を奉る」は、特に絶品。
時里二郎『石目』は、共同体の民間伝承の物語を精巧な叙述で描いた、稀有な書物といえようか。生の源流を、詩の根源を、奇譚のなかで、必死に探し求めている。イシメサンが、からだに住みついてしまう。観音さんに取り替えてもらった子とは、わたしのことではないだろうか……。
渡辺めぐみ『ルオーのキリストの涙まで』は、痛みを感じずには読むことのできない、まさに涙の詩集といえるだろう。『内在地』『光の果て』をさらに奥へと進めた、作者の渾身をかけた、成熟の言葉が光る。

蜂飼耳

石牟礼道子『祖さまの草の邑』は、芯のあるやさしい視線で天地をぐるっとみわたす詩集だ。ここにひろがる海山、生きものや精霊たちの気配と関係はなつかしく、そして新鮮だ。「指先で額の生えぎわをまさぐっていた/ふっと気づいたのだが そこは/潮のゆききする浜辺だった」。たとえばこんな始まり方から展開する世界。於古世野魚万呂や蟇の蟇左ェ門など、ここにかたちをあらわす魚や牛蛙たちは自然と人間のあいだを豊かにつなぐ。自然の一部を成す人間のすがたが、ときにユーモアとともに、またときには厳しさも含めて、改めて詠いなおされていく。その喜びを、この詩集はとても深いところから運んでくる。語から語へ、行から行へ。言葉を〈選ぶ〉のではなく、まさに言葉から〈選ばれている〉というほかない足取りを見せる詩の数々が織り成す一冊の世界。生命と向き合い、あらゆるものを抱き取りいつくしむこの詩集の在り方をなにより大切に思う。

佐々木幹郎

候補詩集のなかで、最終的に石牟礼道子『祖さまの草の邑』と、時里二郎『石目』の二冊が残った。時里氏の詩集は作者の民族的ロマネスクの集成。言葉に論理を与えながら、自己回転していく想像力の面白さを満喫させられた。それに対して石牟礼氏の詩集は、現実と幻の境界があって、ない。時里氏が現実と幻の遠近法を遊んでいるとすれば、石牟礼氏は現実と幻の境界そのものを、言葉の遊び場としている。古代の「うた」がそうであったように、うたうことによって魂を呼び求める。つまり石牟礼氏はフィクションとしての幻を作り上げたのではなく、幻が現実。作者自身が幻と化しているのである。そうなると言葉は強く、妖力を持つ。代表作『苦海浄土』以来の、「悶え神」のありようと、その「さびしがりや」のありように、心を奪われた。『祖さまの草の邑』は、石牟礼氏の詩の総集篇であって、ここに大輪の花が咲いたと言ってもいいのである。

小池昌代

石牟礼さんのあらゆる作品の源には、常に「詩」があると感じてきたが、その詩作品は、散文作品に比べて、必ずしもわかりやすいものではなかった。一つには語彙。本詩集でも、天草方言や文語など、現代人には馴染みの薄い言葉が使われている。何よりも、ものを見る視線に古代人のような超越したものがあって、それが私には新鮮以上の驚異だった。世界の本源をこの詩集は照らしている。私たちは皆、そこに繋がる者であるのに、随分遠くに来てしまったようだ。読みながら、裂けた源が一つになり混沌が混沌として回復していくような思いを持った。大地の蒲団のような詩集。このような詩は、現代詩のどこにも見あたらない。泥のなかのめめんちょろたちを未来へ紹介したいと私は思った。石牟礼詩集が「未完」という顔つきで開かれているのに対し、時里二郎『石目』は完結した世界を一冊に封印していた。自己消滅と自己再生の魅力的なモチーフが丁寧に紡がれ、最後まで心にかかっていた。

選考経過

第32回「現代詩花椿賞」の選考会は、2014年9月17日午後1時より、東京銀座資生堂ビル8階サロンで行われました。選考対象は2013年9月1日から2014年8月31日までに発行(奥付に銘記)された詩集。高貝弘也氏、蜂飼耳氏、佐々木幹郎氏、小池昌代氏の選考委員四氏から、計11冊の詩集が推薦されました。蜂飼耳氏を座長とする審議により、午後3時20分、石牟礼道子『祖(おや)さまの草(くさ)の邑(むら)』、時里二郎『石目』、渡辺めぐみ『ルオーのキリストの涙まで』、浅井眞人『仁王と月』の4冊を最終候補作に決定。さらに討議を重ねた結果、午後3時46分、全員一致で標題の通り受賞作を決定しました。受賞者には特製香水入れと賞金100万円が贈られます。

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