第7回 shiseido art egg/審査結果

審査実施報告

資生堂ギャラリーは、1919年のオープン以来「新しい美の発見と創造」という活動理念のもと、90年以上活動を継続してきました。shiseido art egg(シセイドウ アートエッグ)は、その理念を具現化するものとして、発表の場を求める新進アーティストの皆さんに、ギャラリーの門戸を広く開く公募制のプログラムです。
7回目を迎える本年は、全国各地より293件の応募をいただきました。
今回は10代~30代の方の応募が多く全体の80%を占め、これまでにも増して30代の方の応募が目立ちました。
そのなかで、長時間に及ぶ審査の結果、新しい表現の可能性を独自の発想と手法で追及している久門剛史、ジョミ・キム、川村麻純の3名が入選となりました。

審査概要

応募受付 :  2012年6月1日~15日
応募総数 :  293件
審査員 :  岡部あおみ(美術評論家/資生堂ギャラリーアドバイザー)
水沢勉(神奈川県立近代美術館館長/資生堂ギャラリーアドバイザー)
資生堂 企業文化部

審査員所感

岡部あおみ(美術評論家/資生堂ギャラリーアドバイザー)

ドイツのカッセルで4,5年毎に開催されるドクメンタやベルギーのマニフェスタなどを見て帰国してすぐの審査だったので、海外の作家の作品を脳裏に描き、比較したりしつつ通常よりもじっくり時間をかけて応募案やポートフォリオを読ませていただいた。国際展特有の作品や作家の多様性に慣れてしまったせいもあり、国内中心の活動や成果がどことなく大枠の中の出来事のように感じられた。作品自体、もっと自由で大胆であっていいし、従来の芸術の概念を壊すというジェスチャーだけでなく、実際に思考の厚みを増し、思いがけない方向に広げて芸術の枠を揺るがし、再認識させるような実践が重要だと思う。今回選抜された3人の作品にはこうした挑戦が見られ、造形的にもじっくり練られている。
芸術は個人の営為とはいえ、社会や歴史や文化と深く関連しつつ発展してきた。とくに今日のグローバルな時代には、個に根差しながらも共生する世界に向けて眼差す想像力があってこそ、国境を越えて多くの人達の知覚や感性に響くものになるだろう。
制作者は許された時間の可能なかぎりをつい制作のみに使ってしまいがちだ。しかも国内で開催されている絵画や彫刻展の多くは、どうしても従来の枠の中での展示や競争になりがちである。国内でも国際展の数々や重要な海外作家の展示を見たり、近隣のアジアなどにもぜひ足を延ばして見て回ることをお薦めしたい。自らにもっとも適した表現媒体を使い続けるとしても、制作者の視点や思考の変化は作品に少なからぬ影響を与えるもので、応募を続けてくださっている方々の作品にそうした変化を見出すときは、私自身も励まされ、とても明るい気持ちになる。

水沢勉(神奈川県立近代美術館館長/資生堂ギャラリーアドバイザー)

痛手からほんとうに立ち直るには、忘れることもできるという健やかさの回復も含めて、ずいぶんと長い時間が必要なのではなかろうか。
悲惨な出来事ばかりに彩られてきたといっても過言ではないわたしたち人間の歴史は、ときにすべて忘れたいとさえ願った当事者たちが熟慮や逡巡のすえに記録し、伝えられ、共有されてきた。そうした出来事の記憶が芸術的表現へと昇華したことも少なくなかった。慟哭(Lamentation)は、もっとも強烈で、しかも持続する表現衝動のひとつであるからだ。
アクティヴィストとして事態に即応して行動するアートの在り方もいつでも可能性として問われている。しかし、その一方で、こうした歴史全体におよぶ洞察もアートには期待されている。時間の流れさえも、ときに飛び越し、自在に往還することもできる。つまり、それは、忘却の淵からの想起であると同時に、未来の先取りでもありえる。原液のままのアートがしばしば世に容れられない、カッサンドルの悲劇を余儀なくされるのも、その本質に照らすならば当然のことであろう。
今回の応募作品に「水」をモチーフとするものが多かった。もちろん、東北地方を襲った津波の記憶は生々しいままであり、原発事故も重なり、復興の道筋はいまなお見えていない。しかし、カタストロフィーへの直接的な言及というよりも、神話的形象としての「水」に浄化の可能性を探そうとする作品が多かったように感じられた。
平常心としてのアート。遮二無二に復興へと突き進んでは、気がつけば、元の木阿弥、二の舞を踏むことになりかねない。「生」のありようを静かにみつめる表現の可能性。今回選ばれた三人のそれぞれまったく異なった表現者は、それぞれがそうした表現の可能性を独自の発想と手法で追及している点で高く評価された。その発表の成果が期待される。

入選者

久門剛史
久門剛史 作品
「あれそれこれどれ」 2012

久門剛史

インスタレーション
展覧会会期:2013年1月8日(火)~31日(木)

1981 京都生まれ
2007 京都市立芸術大学大学院美術研究科彫刻専攻修了

会社勤めとの二重生活のなかでは、「どんな作品を作ろう?」という考えよりも、「何が作品か?」という思いが、今、自分の心を動かすものとなっています。
作品と呼ばれるものは、本当はすごく些細で身近にあって、見えたり聴こえたりしているのだけれど、でも絶対に手の届かないものだと思っています。
大きな目標のひとつであったこのギャラリー空間で、今まで経験してきた事の多くを解き放ちたいと思います。

審査員評

岡部あおみ

久しぶりに大規模な空間インスタレーションの提案である。しかもコンピューターのプログラミングを介した音とムーブメントの饗宴という演出もある。家と会社、あるいは田舎と都市という二つの場所が設定され、それぞれ異なる経験と同時体験が入り混じる。たとえば、両者で架空なのだが同じラジオ番組を聞ける一方、鈴虫の鳴き声が聞けるのは家だけ、水槽がボコボコ動くのは事務所だけといった具合。シナリオでは女性が声の出演をして、夜になると人工の星空も眺められるらしい。人の気配と物の動きが二か所で神出鬼没に展開する。日常生活における5分間はあっという間だが、久門氏が提案するビックリハウスでの時間はともかく盛りだくさんで長そうだ。観客が内部に足を踏み入れる空間は防災や安全性の基準が厳しいので、予算組みがやや心配である。

水沢勉

久門剛史は、「日常」(かれは「毎日」ということばを好む)を特別なハレの舞台であるギャラリー空間にインストール(仮設)する。周到にサラウンドな音響や人工照明による光の効果も組み込まれている。人間が主役というよりも、その普通の空間こそが展示されるべきものであり、鑑賞者であるわたしたちも、その一部に取り込まれることになる。環境的な作品ともいえるものだが、ことさらに目新しいテクノロジーに訴えて、ひとを驚かすような仕掛けが目論まれているわけではない。むしろ、作者のいう、「毎日」の「ほとんど円に見える螺旋」が再現され、その目立たない異様さにわたしたちの気づきを促すことが意図されていると解釈できるのではなかろうか。最大の労力で最小の効果を狙う。そのナンセンスさも含めて、わたしたちの「生」のありようを問いかける点で、さりげなく、したたかに、日常に紛れ、すっかり忘れてしまっている、その底を踏み抜いてしまうようなラディカルさをそのインスタレーションは秘めている。

ジョミ・キム
photo by 天野憲一
ジョミ・キム 作品
「houses I have lived」 2006

ジョミ・キム

インスタレーション
展覧会会期:2013年2月5日(火)~28日(木)

1976 兵庫生まれ
2006 セントラル・セント・マーチンズ・カレッジ・オブ・アーツ
アンド・デザイン美術修士課程修了

今まで見る側の立場でしか訪れる事のなかった資生堂ギャラリーで、展示する機会を頂けるなんて夢のようです。
何かを作るという事は、当たり前の事ですが、その新しい何かに対しての時間をスタートさせるという事でもあります。同じ時間を共有しながらもそれぞれに緩やかであったり急速であったりするそれらの変化に目を向けた展示を予定しています。観にきて下さった方々の心に少しでも触れる展覧会にしたいです。

審査員評

岡部あおみ

今回、審査にたずさわったメンバーに、ジョミ・キム氏の作品を実見したり名前を聞いたりした者はなく、そのフレッシュな「新人度」と、明快な世界観を個性的な手法で作品に落とし込む見事な熟練度の落差にまず当惑し、同時に関心を深めた。これまでは生活を支えるデザインなどの仕事が忙しく、限られた場所での発表経験しかない。またキム氏の作品は、写真とモノのかかわり合いにあり、そうした境界領域の実践はえてして両者から鬼っ子扱いされたりもする。透明な消臭ビーズを使ったネックレス、つけまつげを組んで並べたレース編みのようなオブジェ、櫛に編みこんだ髪の毛など、ささやかな日用品にほんの少し手を加えた風変わりで美しい佇まい。その原型を写真に撮る。そして写真を展示し、その下には時を経て存在し続けるモノたちのありのままの姿を提示する。かすかに時を刻むモノたちの年齢の変化を観賞者はどのように受けとめるのか。作品を実際に見るのが楽しみだ。

水沢勉

けっして大袈裟にならず、声低く、女性ならではのモチーフを扱いながら、しかし、したたかに存在を問いかけるオブジェやインスタレーション。素材は、ホワイトタック、消臭剤、マスキングテープといったふだんは目立たないことをよしとされる、脇役的なものが多く選ばれている。ほとんどなにもしないというもうひとつの「行為」。それは、世界のはかなさや移ろいやすさを際立たせるための態度である。崩壊し、消失していくことを受容する態度である、とそれを言い換えてもよいかもしれない。小さく、ささやかな日常のLamentationが連なっていく。抜けおち、捨てられていく髪の毛やつけまつげも、一見フェティッシュに感じられるが、じつはいとおしい存在であり、けなげにも世界の一過性をわたしたちに告げているのではなかろうか。世界の断片性を意識したジョミ・キムが、それ自体がひとつの世界であるギャラリー空間のなかにどのような断片性を提示するのか。ささやきに満たされた空間の出現を期待したい。

川村麻純
川村麻純 作品
「Mirror Portraits」 2012

川村麻純

映像
展覧会会期:2013年3月5日(火)~28日(木)

1975 千葉生まれ
2012 東京藝術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻修士課程修了

歴史ある資生堂ギャラリーで展示できる機会をいただき、大変嬉しく思います。
今回の展示では写真、映像、音声を用い、家族を題材としたポートレート作品を制作します。

審査員評

岡部あおみ

今年、ある大学院の修了展で、縦長のスクリーンに母と娘が映し出され、ヘッドホーンをつけた6,7人の観賞者が座っていた。静止画に近い肖像の映像は完成度が高く、サイレントでも成立するほどだった。耳にささやかれるインティメイトな声の魅力もあって、母と娘が互いを語る内容の奥深さに長い間聞き惚れた。インタヴューする作家の声はoffだが、話し続ける女性たちのリラックスした様子や言葉から、並はずれた聞き手であることがわかり、成熟した人生観も感じさせられた。多くの人に見てもらいたい作品であった。身近な題材を通して、普遍的ともいえる家族愛を描くだけではなく、繊細な問題提起とともに各人の生きた軌跡の大いなる個別性と輝きの瞬間を際立たせる。art eggでの新作は、母を中心とした映像インスタレーションになる予定で、忙しい人がせわしく訪れる資生堂ギャラリーでは、音声処理の方法に一工夫必要になる。

水沢勉

川村麻純の写真や映像による作品は、人間、とくに女性を、多く取りあげる。しかし、その関心は、人間そのものというよりも、複数の人間相互の関係性、とくに母子のような関係性のほうに振り向けられている。実体としての人間ではなく、関係性の網の目のなかに置かれている人間のほうこそが浮かびあがる。特定の個人を掘り下げるのではなく、だれにも当てはまる関係のほうに注目するのだ。実体に捉われるとき、わたしたちは欲望の虜になる(どうしても欲しい商品、自分のものだと主張したくなる領土や異性など)。実体は特殊であり、関係は普遍である、という認識の共有へと開かれるとき、はじめてわたしたちは、実体へと収斂していた欲望から解放される。そのような機微に、川村麻純の作品は、じつに繊細に触れている。しかも、こうした解放こそが、他者の痛みへの共感の前提でもあるのだ。近代の人間中心主義のこわばりを解くヒントがここには隠されているように思える。

応募状況

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