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過去の展覧会 2010年

「駒井哲郎作品展 福原コレクション 生誕90周年―闇と光のあわいに」

資生堂ギャラリー 色への憧憬 2010年10月26日(火)― 12月19日(日)
資生堂アートハウス 黒と白の旋律 2010年10月29日(金)― 12月19日(日)

資生堂アートハウスと東京銀座の資生堂ギャラリーにて、日本における銅版画の先駆者で、戦後の版画史に多大な足跡を残した駒井哲郎(こまい てつろう・1920-1976)の作品展を両館合同で開催しました。
駒井哲郎と資生堂ギャラリーとの縁は深く、1953年、念願の初個展を資生堂ギャラリーで開催。その後もグループ展などに参加を続け、くしくも生前最後の展覧会となった「九人の会展」も資生堂ギャラリーがその会場となりました。
本展は駒井哲郎生誕90周年を記念して、資生堂名誉会長・福原義春が世田谷美術館に寄託する約500点の駒井コレクションから作品を選び開催しました。

資生堂アートハウスでは、「白と黒の造形美」で知られる駒井のモノクローム作品を中心に、代表作、初期作品に加え、時代を代表する詩人や文学者とのコラボレーションによるブックワークなど約150点を展示。資生堂ギャラリーでは、福原コレクションの最大の特徴であるモノタイプを中心としたカラー作品約100点を展示。銅版画のパイオニアとして時代を生きた駒井哲郎の画業を新たな視点から振り返った展覧会となりました。

「館蔵油彩名品展 資生堂ギャラリーと戦後の洋画と」

2010年7月27日(火)― 10月17日(日)

収蔵品の中から資生堂ギャラリーで発表された作品を中心に、第2次大戦後に描かれた油彩による展覧会を開催しました。
資生堂は初代社長・福原信三(ふくはら しんぞう・1883-1948)の時代から芸術文化支援に力を入れ、1919年にはわが国における画廊の先駆けである資生堂ギャラリーを開設、国内外の優れた芸術を紹介すると共に若い作家たちに発表の場を提供し、日本近代美術史上に足跡を残すことになった多くの芸術家がこのギャラリーからデビューしていきました。
今回は、資生堂が1947年より同ギャラリーを会場に断続的に開催している「椿会美術展」や、中堅洋画家による資生堂主催のグループ展「檀 會」(まゆみかい・1950-1968)への出品作を中心に、資生堂がその精神に共感し、支援を続けてきた16名の作家による40余点を展覧しました。
第一会場は、牛島憲之、梅原龍三郎、岡 鹿之助ら文化勲章受章者をはじめ、戦後の具象洋画壇を牽引してきた15名による28点、第二会場は第5次椿会(2001-2005)メンバー児玉靖枝による作品10余点を展覧。
この展覧会は戦後における油彩表現の発展を垣間見られるものであると同時に、資生堂が長年にわたり継続してきた芸術支援活動の一端をご覧いただける内容となりました。

「ガラスによる造形 岩田藤七、岩田久利、イワタルリ 三人展」

2010年4月9日(金)― 7月19日(月)

わが国における近代ガラス工芸の開拓者であり、指導者でもあった岩田藤七(いわた とうしち 1893-1980)と、その長男で同じくガラス工芸家の岩田久利(いわた ひさとし 1925-1994)、久利の長女で、工芸品のみならずガラスによる斬新な造形で注目を集める、イワタ ルリ(1951-)の作品40点による展覧会。
岩田藤七は、日本の工芸美術においては未開拓の分野であったガラス工芸の道に進み、豊かな色彩に複雑多様な表現を加味した宙吹きガラスの作品によって、芸術の分野のみならず、日常に用いられる工芸品としてのガラス工芸をわが国に幅広く定着させました。
息子の久利は、父が確立した宙吹き法をさらに発展させながら、ガラス工芸界の第一人者として活躍し、資生堂主催の「現代工藝展」(1975-1995)には創設メンバーとして、初回から1993年の第18回展まで出品しています。
イワタルリは、資生堂主催の「第5次椿会美術展」(2001-2005)の創設メンバーであり、アートハウスの庭園内に設置されている大型の立体作品にみられるような、キャスト(鋳型)を用いた創作に新機軸を打ち出すと共に、岩田家の伝統である宙吹きによる分野でもヴァリエーションに富んだ作品を発表しています。岩田家三代の作品による展覧は、わが国におけるガラス工芸の歴史を振り返るものであると同時に、ガラスを素材にした芸術の今後の展開を広く示唆する内容となりました。

「山名文夫展 イラストレーションと油彩」

2010年1月13日(水)― 3月22日(月)

わが国における商業デザイナーの草分けとして戦前、戦後を通じて活躍し、没後30年となる山名文夫(やまなあやお・1897-1980)の作品展。
山名文夫は広島市に生まれ、県立和歌山中学校(現・県立桐蔭高等学校)卒業後、大阪梅田の赤松麟作洋画研究所で油絵を学びます。1910年代後半から雑誌の編集や執筆に携わり、その後入社したプラトン社で本格的にイラストレーションを手掛けるようになりました。
資生堂には意匠部員として1929年に入社、以来2度の退社復社を経ながらもアートディレクションを通じて広告デザインにおける資生堂スタイルの確立に寄与し、広告表現の主流が写真に移行する1960年代まで、山名の手による女性像は資生堂のイメージを形作ってきました。
本展では、資生堂に関連する作品はもとより、一般書籍のために描かれた表紙絵や口絵、挿絵、また私家版として発表された貴重なイラストレーションなどの原画にいたるまで100点余りを展示。これまで公開される機会の少なかった油絵やさまざまな周辺資料も一同に会し、山名文夫の新しい魅力を紹介しました。